2009年10月22日
現代日本作家
中上健次が戦後世代として、初めて芥川賞を受賞した。彼は、出身地である紀州にこだわった紀州三部作『岬』(芥川賞受賞・1975年)、『枯木灘』(1976年-1977年)、『鳳仙花』(1979年)で土着的文学世界を築いた。続いて『限りなく透明に近いブルー』(昭和51年)で覚せい剤と乱交にあけくれる若者を描き、村上龍が芥川賞受賞。『コインロッカー・ベイビーズ』(1980年)、『愛と幻想のファシズム』(1984年-1986年)など多くの小説を発表した。
村上龍とともに語られるのが、1979年に『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞してデビューした村上春樹である。『羊をめぐる冒険』(1982年)などの英米文学の影響を受けた作風が支持された。『泥の河』(1977年)で宮本輝が登場し、『蛍川』(1977年)『道頓堀川』(1978年)を合わせた川三部作により戦後大阪の庶民の姿を描いた。1983年には『優しいサヨクのための嬉遊曲』で島田雅彦がデビューした。
その間にも檀一雄が『火宅の人』(1975年)、安岡章太郎が『流離譚』(1976年)、吉行淳之介『夕暮まで』(1978年)、黒井千次が『群棲』(1981年-1984年)を、井上ひさしは『吉里吉里人』(1973年-1980年)を発表した。また、大江健三郎は『ピンチランナー調書』(1977年)、『同時代ゲーム』(昭和54年)の後、代表作の一つ『新しい人よ眼ざめよ』(1983年)を著した。
演劇の世界で活躍していたつかこうへいが『蒲田行進曲』(昭和56年)で直木賞を、同じく演劇人の唐十郎が『佐川君からの手紙』(1983年)で芥川賞を受賞し注目をあつめた。
『光り抱くともよ』(1984年)で高樹のぶ子が登場。『鍋の中』(1987年)の村田喜代子、『由熙』(1988年)の李良枝らの芥川賞受賞の女性作家の活躍が見られた。芥川賞に何度もノミネートされた山田詠美は、『ソウルミュージックラバーズ・オンリー』(1987)で直木賞。デビュー作『ベッドタイムアイズ』(1985年)など話題作を発表した。1987年、『キッチン』で評論家吉本隆明の次女、吉本ばなながデビューして“ばなな現象”を起こした。『うたかた/サンクチュアリ』(1987年)、『TUGUMI』(1988年-1989年)等により孤独で現代的な登場人物をみずみずしい感性で描いた。
村上龍とともに語られるのが、1979年に『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞してデビューした村上春樹である。『羊をめぐる冒険』(1982年)などの英米文学の影響を受けた作風が支持された。『泥の河』(1977年)で宮本輝が登場し、『蛍川』(1977年)『道頓堀川』(1978年)を合わせた川三部作により戦後大阪の庶民の姿を描いた。1983年には『優しいサヨクのための嬉遊曲』で島田雅彦がデビューした。
その間にも檀一雄が『火宅の人』(1975年)、安岡章太郎が『流離譚』(1976年)、吉行淳之介『夕暮まで』(1978年)、黒井千次が『群棲』(1981年-1984年)を、井上ひさしは『吉里吉里人』(1973年-1980年)を発表した。また、大江健三郎は『ピンチランナー調書』(1977年)、『同時代ゲーム』(昭和54年)の後、代表作の一つ『新しい人よ眼ざめよ』(1983年)を著した。
演劇の世界で活躍していたつかこうへいが『蒲田行進曲』(昭和56年)で直木賞を、同じく演劇人の唐十郎が『佐川君からの手紙』(1983年)で芥川賞を受賞し注目をあつめた。
『光り抱くともよ』(1984年)で高樹のぶ子が登場。『鍋の中』(1987年)の村田喜代子、『由熙』(1988年)の李良枝らの芥川賞受賞の女性作家の活躍が見られた。芥川賞に何度もノミネートされた山田詠美は、『ソウルミュージックラバーズ・オンリー』(1987)で直木賞。デビュー作『ベッドタイムアイズ』(1985年)など話題作を発表した。1987年、『キッチン』で評論家吉本隆明の次女、吉本ばなながデビューして“ばなな現象”を起こした。『うたかた/サンクチュアリ』(1987年)、『TUGUMI』(1988年-1989年)等により孤独で現代的な登場人物をみずみずしい感性で描いた。
2009年10月22日
太陽の季節
1968年、川端康成がノーベル文学賞を受賞。その2年後の1970年には、三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地において割腹自殺した。四部作『豊饒の海』最終部を脱稿した日の自決であった。プロレタリア文学の流れをくんだ中野重治や宮本百合子は、新日本文学会を創立して、民主主義文学運動をおこし、労働者の文学の力を発掘した。
雑誌「近代文学」の周辺から埴谷雄高、安部公房、三島由紀夫らが現れたほか、大岡昇平、井上靖、幸田文、円地文子らが旺盛な活動を見せた。「内向の世代」と呼ばれる、心理描写の深さを追求する作家たちが現れたのもこの時期である。古井由吉、後藤明生、黒井千次らが有名になった。
戦後登場した作家たちが、長編に本領を発揮し始め、武田泰淳『富士』、大岡昇平『レイテ戦記』、福永武彦『死の島』、中村真一郎『頼山陽とその時代』、野間宏『青年の環』などの作品がある。新日本文学会から離脱した者を中心に日本民主主義文学同盟が結成され、民主主義文学の伝統を引き継いだ。
1967年、散逸した近代文学関係の資料を収集・保存するため、文壇・学界・マスコミ関係の有志によって、東京目黒・駒場公園内に「日本近代文学館」が財団法人の運営で開館した(初代理事長:高見順)。
また、戦後派のうち島尾敏雄や梅崎春生の傾向は、「第三の新人」と呼ばれる小島信夫、安岡章太郎、庄野潤三、遠藤周作、吉行淳之介、阿川弘之らに受け継がれた。第一次戦後派作家、第二次戦後派作家の次に現れたため、「第三次戦後派作家」という意味の「第三の新人」と呼ばれる。
第三の新人以降、1956年(昭和31年)に石原慎太郎が『太陽の季節』で「戦後の最初の宣言」として文壇に華々しく登場し、芥川賞の存在が一躍有名になった。ほかに大江健三郎、北杜夫などの有力、多彩な新人が登場する。
雑誌「近代文学」の周辺から埴谷雄高、安部公房、三島由紀夫らが現れたほか、大岡昇平、井上靖、幸田文、円地文子らが旺盛な活動を見せた。「内向の世代」と呼ばれる、心理描写の深さを追求する作家たちが現れたのもこの時期である。古井由吉、後藤明生、黒井千次らが有名になった。
戦後登場した作家たちが、長編に本領を発揮し始め、武田泰淳『富士』、大岡昇平『レイテ戦記』、福永武彦『死の島』、中村真一郎『頼山陽とその時代』、野間宏『青年の環』などの作品がある。新日本文学会から離脱した者を中心に日本民主主義文学同盟が結成され、民主主義文学の伝統を引き継いだ。
1967年、散逸した近代文学関係の資料を収集・保存するため、文壇・学界・マスコミ関係の有志によって、東京目黒・駒場公園内に「日本近代文学館」が財団法人の運営で開館した(初代理事長:高見順)。
また、戦後派のうち島尾敏雄や梅崎春生の傾向は、「第三の新人」と呼ばれる小島信夫、安岡章太郎、庄野潤三、遠藤周作、吉行淳之介、阿川弘之らに受け継がれた。第一次戦後派作家、第二次戦後派作家の次に現れたため、「第三次戦後派作家」という意味の「第三の新人」と呼ばれる。
第三の新人以降、1956年(昭和31年)に石原慎太郎が『太陽の季節』で「戦後の最初の宣言」として文壇に華々しく登場し、芥川賞の存在が一躍有名になった。ほかに大江健三郎、北杜夫などの有力、多彩な新人が登場する。
2009年10月22日
日本大衆小説
大衆小説は、明治期に尾崎紅葉の『金色夜叉』などの風俗小説が発展し、村上浪六、塚原渋柿園の髷物(撥鬢物)、押川春浪の冒険小説など通俗的な小説が書かれ、その先駆となった。自然主義が文壇の主流を占める中で、明治の終わりごろから夏目漱石や森鴎外といった反自然主義文学運動が起こった。
当初自然文学に傾倒していた永井荷風は、欧州から帰国後、『ふらんす物語』を発表。荷風に激賞された谷崎潤一郎は『刺青』や『痴人の愛』をなどを書き、後期浪漫主義とも呼ばれる耽美派が生まれた。これは「スバル」「三田文学」を中心に活動した。ほかに佐藤春夫、久保田万太郎に代表される。
大正2年(1913)に、中里介山は「大乗小説」と称する大作『大菩薩峠』の連載を開始。人間の業を描こうとした時代小説で、未完に終わったがその影響は大きく、大衆小説の出発点とされる。大正14年(1925)に刊行された「キング」には当時の人気作家がこぞって執筆、特に吉川英治は高い人気を得、『鳴門秘帖』『宮本武蔵』などで国民作家の名を冠せられた。このほか講談や読本などが発展した時代小説では大佛次郎、白井喬二らが活躍した。
大正中期からは東京帝大系統の「新思潮」で活動する新思潮派が漱石や鴎外の影響の下に現れ、芥川龍之介や久米正雄らの活動があった。龍之介は『鼻』で登場し、古典に取材した数多くの短編などで大正文壇の寵児となった。一方、菊池寛や山本有三などの劇作家の活躍もあった。また新早稲田派とも呼ばれる宇野浩二や広津和郎、葛西善蔵らによって心境小説、私小説が書かれた。黒岩涙香の翻案小説などで紹介された探偵小説は、「新青年」に『二銭銅貨』でデビューした江戸川乱歩が数多く執筆し、多大な影響を与えた。このジャンルは甲賀三郎、横溝正史らのほか、江戸時代を舞台にした「捕物帳」と呼ばれる時代物が書かれた。
これに対し、自由・民主主義の空気を背景に、「白樺」で活動した白樺派の人々は、人道主義を主張した。『お目出たき人』『友情』の武者小路実篤や、『和解』『暗夜行路』の志賀直哉、『或る女』の有島武郎、『出家とその弟子』の倉田百三らである。
当初自然文学に傾倒していた永井荷風は、欧州から帰国後、『ふらんす物語』を発表。荷風に激賞された谷崎潤一郎は『刺青』や『痴人の愛』をなどを書き、後期浪漫主義とも呼ばれる耽美派が生まれた。これは「スバル」「三田文学」を中心に活動した。ほかに佐藤春夫、久保田万太郎に代表される。
大正2年(1913)に、中里介山は「大乗小説」と称する大作『大菩薩峠』の連載を開始。人間の業を描こうとした時代小説で、未完に終わったがその影響は大きく、大衆小説の出発点とされる。大正14年(1925)に刊行された「キング」には当時の人気作家がこぞって執筆、特に吉川英治は高い人気を得、『鳴門秘帖』『宮本武蔵』などで国民作家の名を冠せられた。このほか講談や読本などが発展した時代小説では大佛次郎、白井喬二らが活躍した。
大正中期からは東京帝大系統の「新思潮」で活動する新思潮派が漱石や鴎外の影響の下に現れ、芥川龍之介や久米正雄らの活動があった。龍之介は『鼻』で登場し、古典に取材した数多くの短編などで大正文壇の寵児となった。一方、菊池寛や山本有三などの劇作家の活躍もあった。また新早稲田派とも呼ばれる宇野浩二や広津和郎、葛西善蔵らによって心境小説、私小説が書かれた。黒岩涙香の翻案小説などで紹介された探偵小説は、「新青年」に『二銭銅貨』でデビューした江戸川乱歩が数多く執筆し、多大な影響を与えた。このジャンルは甲賀三郎、横溝正史らのほか、江戸時代を舞台にした「捕物帳」と呼ばれる時代物が書かれた。
これに対し、自由・民主主義の空気を背景に、「白樺」で活動した白樺派の人々は、人道主義を主張した。『お目出たき人』『友情』の武者小路実篤や、『和解』『暗夜行路』の志賀直哉、『或る女』の有島武郎、『出家とその弟子』の倉田百三らである。
2009年10月22日
明治の詩歌、演劇
詩では、外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎によって『新体詩抄』が刊行され、新体詩が盛んになる。
ドイツから帰国した森鴎外は翻訳詩集『於母影』を、北村透谷は『楚囚之詩』『蓬莱集』を出版した。透谷の「文學界」に参加していた藤村は『若菜集』を、藤村と並称された土井晩翠は、『天地有情』を刊行。これらは浪漫詩と呼ばれる。「文庫」では河井醉茗、横瀬夜雨、伊良子清白が活動した。
象徴詩では薄田泣菫、蒲原有明が活躍し、その後を受けて北原白秋、三木露風らが台頭。「白露の時代」と呼称された。また、上田敏は、訳詩集『海潮音』を発表し、影響を与えた。
浪漫主義のうち、短歌では与謝野鉄幹が「明星」を創刊、与謝野晶子は『みだれ髪』を発表した。この一派であった石川啄木、窪田空穂も活躍を見せたが、特に啄木は『一握の砂』『悲しき玩具』を刊行した。
竹柏会を主催した佐佐木信綱は、「心の花」を創刊。正岡子規は『歌よみに与ふる書』を発表し根岸短歌会を開き、伊藤左千夫、長塚節らが参加した。北原白秋、吉井勇らはパンの会を起こし、耽美派に繋がる歌を読んだ。
俳句では、子規や「ホトトギス」を中心に、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪らが輩出された。
また、演劇界にも自然主義の影響があり、逍遥、島村抱月らが文芸協会を立て、イプセンの『人形の家』の上演などを行った。文芸協会の解散後、抱月は松井須磨子らとともに芸術座を設置しL.トルストイの作品などを上演、『復活』が評判となった。このほか、小山内薫、2代目市川左團次により、自由劇場の活動が見られた。
ドイツから帰国した森鴎外は翻訳詩集『於母影』を、北村透谷は『楚囚之詩』『蓬莱集』を出版した。透谷の「文學界」に参加していた藤村は『若菜集』を、藤村と並称された土井晩翠は、『天地有情』を刊行。これらは浪漫詩と呼ばれる。「文庫」では河井醉茗、横瀬夜雨、伊良子清白が活動した。
象徴詩では薄田泣菫、蒲原有明が活躍し、その後を受けて北原白秋、三木露風らが台頭。「白露の時代」と呼称された。また、上田敏は、訳詩集『海潮音』を発表し、影響を与えた。
浪漫主義のうち、短歌では与謝野鉄幹が「明星」を創刊、与謝野晶子は『みだれ髪』を発表した。この一派であった石川啄木、窪田空穂も活躍を見せたが、特に啄木は『一握の砂』『悲しき玩具』を刊行した。
竹柏会を主催した佐佐木信綱は、「心の花」を創刊。正岡子規は『歌よみに与ふる書』を発表し根岸短歌会を開き、伊藤左千夫、長塚節らが参加した。北原白秋、吉井勇らはパンの会を起こし、耽美派に繋がる歌を読んだ。
俳句では、子規や「ホトトギス」を中心に、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪らが輩出された。
また、演劇界にも自然主義の影響があり、逍遥、島村抱月らが文芸協会を立て、イプセンの『人形の家』の上演などを行った。文芸協会の解散後、抱月は松井須磨子らとともに芸術座を設置しL.トルストイの作品などを上演、『復活』が評判となった。このほか、小山内薫、2代目市川左團次により、自由劇場の活動が見られた。
2009年10月22日
日本文化の自然主義
明治の終わりになると、ゾラやモーパッサンといった作家の影響を受け、自然主義が起こった。ヨーロッパの自然主義は遺伝学などを取り入れ客観的な描写を行うものであったが、日本では現実を赤裸々に暴露するものと受け止められた。島崎藤村の『破戒』(明治39)に始まり、後に田山花袋の『蒲団』によって方向性が決定づけられた。花袋の小説は私小説の出発点ともされ、以後日本の小説の主流となった。自然主義作家としては、国木田独歩、徳田秋声、正宗白鳥らがおり、後に藤村も『家』『新生』、花袋も『田舎教師』を発表した。
代文学は西欧近代小説の理念の流入とともに始まり、坪内逍遥の『小説神髄』によって実質的に出発した。「小説の主脳は人情なり、世態風俗はこれに次ぐ」という主張に感銘を受け、二葉亭四迷が『小説総論』を書いた。これらの評論をもとに逍遥は『当世書生気質』(明治18年 - 19年)を書いたが、戯作の風情を多分に残していた。それらを克服して明治20 - 22年に発表された四迷の『浮雲』は、最初の近代日本文学とされる。また、四迷は『あひゞき』『めぐりあひ』といったロシア文学の翻訳をし、大きな影響を与えた。
こうした写実主義的な近代リアリズム小説が充実し始める一方、政治における国粋主義的な雰囲気の高まりにともなって、井原西鶴や近松門左衛門らの古典文学への再評価が高まった。1885年(明治18年)、尾崎紅葉、山田美妙らが硯友社をつくり、「我楽多文庫」を発刊した。擬古典主義のもと、紅葉は『二人比丘尼色懺悔』『金色夜叉』を発表した。紅葉の女性的、写実的な作風に対して、男性的、浪漫的な作風で人気を博したのが幸田露伴である。『露団々』『風流仏』『五重塔』などの小説のほか、評論や古典の解釈など幅広く活躍した。露伴と紅葉が活躍した時期は「紅露時代」と呼ばれた。
森鴎外の登場によって、叙情的で芸術的な傾向をもつ浪漫主義文学が登場する。ドイツへの留学経験の題材にした『舞姫』(明治23)などによって、近代知識人の自我の覚醒を描いた。この頃、北村透谷を中心とした雑誌「文學界」には浪漫主義的な作品が発表された。樋口一葉は、代表作『たけくらべ』『にごりえ』で注目されるが、24歳の若さで結核に倒れた。『高野聖』を発表した泉鏡花は、『婦系図』『歌行燈』で幻想的な世界を描いた。
代文学は西欧近代小説の理念の流入とともに始まり、坪内逍遥の『小説神髄』によって実質的に出発した。「小説の主脳は人情なり、世態風俗はこれに次ぐ」という主張に感銘を受け、二葉亭四迷が『小説総論』を書いた。これらの評論をもとに逍遥は『当世書生気質』(明治18年 - 19年)を書いたが、戯作の風情を多分に残していた。それらを克服して明治20 - 22年に発表された四迷の『浮雲』は、最初の近代日本文学とされる。また、四迷は『あひゞき』『めぐりあひ』といったロシア文学の翻訳をし、大きな影響を与えた。
こうした写実主義的な近代リアリズム小説が充実し始める一方、政治における国粋主義的な雰囲気の高まりにともなって、井原西鶴や近松門左衛門らの古典文学への再評価が高まった。1885年(明治18年)、尾崎紅葉、山田美妙らが硯友社をつくり、「我楽多文庫」を発刊した。擬古典主義のもと、紅葉は『二人比丘尼色懺悔』『金色夜叉』を発表した。紅葉の女性的、写実的な作風に対して、男性的、浪漫的な作風で人気を博したのが幸田露伴である。『露団々』『風流仏』『五重塔』などの小説のほか、評論や古典の解釈など幅広く活躍した。露伴と紅葉が活躍した時期は「紅露時代」と呼ばれた。
森鴎外の登場によって、叙情的で芸術的な傾向をもつ浪漫主義文学が登場する。ドイツへの留学経験の題材にした『舞姫』(明治23)などによって、近代知識人の自我の覚醒を描いた。この頃、北村透谷を中心とした雑誌「文學界」には浪漫主義的な作品が発表された。樋口一葉は、代表作『たけくらべ』『にごりえ』で注目されるが、24歳の若さで結核に倒れた。『高野聖』を発表した泉鏡花は、『婦系図』『歌行燈』で幻想的な世界を描いた。
2009年10月22日
明治の文学
森有礼の呼びかけで発足した明六社は、啓蒙思想をもとに、明治という新社会においての実利主義的主張をした。これは大衆に広く受け入れられ、福澤諭吉『学問のすゝめ』、中村正直訳『西国立志編』、中江兆民訳『民約訳解』がよく読まれた。明治に入ってしばらくは江戸時代と同様の文芸活動が続いていた。明治18年から19年にかけて、坪内逍遥が日本で初めての近代小説論『小説神髄』を発表するまでの時期を「過渡期の文学」と称する。この期間の文学は、戯作文学、政治小説、翻訳文学の三つに分類される。
戯作文学は、江戸時代後期の戯作の流れを受け継ぎつつ、文明開化後の新風俗を取り込み、人気を博した。仮名垣魯文は、文明開化や啓蒙思想家らに対して、これらを滑稽に描いた『西洋道中膝栗毛』(明治3年)、『安愚楽鍋』(明治4年)を発表した。
国会開設や、自由党、改進党の結成など、自由民権運動の高まりとともに明治10年代から政治小説が書かれるようになる。政治的な思想の主張、扇動、宣伝することを目的としているが、矢野竜渓の『経国美談』(明治16年 - 17年)、東海散士の『佳人之奇遇』といったベストセラーになった作品は、壮大な展開を持った構成に、多くの読者が惹きつけられた。坪内逍遥の『小説神髄』発表後は、その主張を受けて写実主義的要素が濃くなり、末広鉄腸の『雪中梅』はその代表的な作品である。
翻訳文学は、明治10年代になってさかんに西欧小説が移入され広まった。代表作は川島忠之助が翻訳したヴェルヌの『八十日間世界一周』(明治11年 - 13年)、坪内逍遥がシェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』を翻訳した『自由太刀余波鋭鋒』である。
戯作文学は、江戸時代後期の戯作の流れを受け継ぎつつ、文明開化後の新風俗を取り込み、人気を博した。仮名垣魯文は、文明開化や啓蒙思想家らに対して、これらを滑稽に描いた『西洋道中膝栗毛』(明治3年)、『安愚楽鍋』(明治4年)を発表した。
国会開設や、自由党、改進党の結成など、自由民権運動の高まりとともに明治10年代から政治小説が書かれるようになる。政治的な思想の主張、扇動、宣伝することを目的としているが、矢野竜渓の『経国美談』(明治16年 - 17年)、東海散士の『佳人之奇遇』といったベストセラーになった作品は、壮大な展開を持った構成に、多くの読者が惹きつけられた。坪内逍遥の『小説神髄』発表後は、その主張を受けて写実主義的要素が濃くなり、末広鉄腸の『雪中梅』はその代表的な作品である。
翻訳文学は、明治10年代になってさかんに西欧小説が移入され広まった。代表作は川島忠之助が翻訳したヴェルヌの『八十日間世界一周』(明治11年 - 13年)、坪内逍遥がシェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』を翻訳した『自由太刀余波鋭鋒』である。




